「…そうか、君が妹の言っていた『先輩』だったのか。知らぬ事とは言え、失礼した。」

       「いいえ、私の方こそまさかあの時の方がナターシャのお兄さんとは思いもよらなかったわ。
        …つくづく世の中って思ったより広くはないものね。」


       ナターシャが先程置いていったカップを手にして、はふっと軽く息をこぼした
       カップの中の琥珀色の液体が緩やかな波紋を描く


       「…それにしても。」


       は一瞬の間を置いて僅かに顔を上げた

       …自分の目の前に、あの夜の男が居て、穏やかな微笑みを浮かべている

       これが二度目であるからか否かはわからないが、
       あの日に夜陰の中で見上げた顔と今のこの表情が同じ人物のものであることがには不思議に思えてならなかった

       …あの夜、青白い光を発した時の彼の険しい表情が私の頭から離れない
       それは、まさに純然たる激しさのみによって構成された鮮やかな結晶の如き美しさだった
       それに引き替え、今自分の目の前で微笑む彼の姿はどうだろう
       …どう見ても20前そこそこの好青年そのものだ
       ……まぁ、「好青年」と言うにはちょっと目つきがきつくはあるけれども

       あまり直視しないようにとはアレクサーの横顔をちらりと一瞥したつもりであったが、の視線がアレクサーのそれとぶつかった
       自分の心の中まで見透かされてしまったような気がして、は多少気恥ずかしい思いが沸き上がって来るのを抑えるのに精一杯であった

       …この歳になって、私ったら何を考えているのかしら…
       こんな事くらいで緊張するなんて馬鹿げてる

       自分よりも遙かに年下の男相手に何故か妙に意識してしまう自分自身には内心微笑ましいほどの苦笑いを覚えてしまうのだったが、
       それと時を同じくして、あの晩のカノンの一言が胸の裏に染みの様に広がって暗い影を落とした

       『…あの男には近づくな。』

       …どうしてなのだろう?一体、彼〈アレクサー〉は何者だと言うのか
       いや、彼の素性云々以上に、あの時垣間見たカノンの表情の変化の方がよほど尋常とは言い難かった
       …確認はできず終いだったけれど、この二人の間に何か隠された謎があるのは間違いない
       そして、それはきっと私が見たあの青白い光…アレクサーから発された光と関係しているのだろう
       …私から見ても、あの光は常人の為せる業ではなかったのだから
       ずっと学問畑で生活してきた自分がこんなことを認めるのも何か妙ではあるけれど、
       ブルーグラード〈ここ〉へ来てからと言うもの、あまりにも人知を越えた経験が多すぎる
       …この人に助けられた時もそう
       私の頬に掌を当てた時、アレクサーから流れ込んできた何かが私の傷を癒した事は誰よりも私自身が一番分かっている

       アレクサーの大きな手の温もりを思い起こして、は再び頬を朱に染めた。
       灯りも届かぬほどの暗闇の中で、の瞳の中に焼き付いた柔らかな金色のうねり、そして透き通った真っ直ぐな青眸
       カノンが強く禁じたからか否かはともかく、あの晩の事…アレクサーの事がの心のどこか奥底に鮮烈に焼き付いて離れなかった

       この気持ちは何なのだろう
       今までこんな不思議な心境は正直味わったことがない

       勿論、とて最近まで大学院生だったくらいの歳だ、恋愛の一つも経験しているし恋人がいたこともある
       …だから今、自分の目の前に座ってその長い指でカップを傾けるこの男に対して、
       心の裏で何か熱い気持ちが沸き上がり掛けていることだけはどうにか感じ取る事ができた
       …しかし、その事が一体、自分の人生に今後どんな影響をどれほど与えうるかと言う事には未だ考えが及ぶべくも無かった
       そして仮に予測できたとしても、それはに取って何の意味も為さないであろう






       「…どうした、。さっきから黙り込んだままだが。
        俺の顔に何か付いているか?」


       アレクサーに話しかけられてはようやく現実に立ち返った


       「いえ、何でもないわ。少し考え事をしていただけ。」

       「…妹の言っていた通りだな。君は。
        時折深刻な表情をして何かとてつもなく遠い事を考えているようだ。」

       「…えっ、ナターシャったら貴方にそんな事まで話しているの?
        …なんだか気恥ずかしいわ。」


       まさか貴方の事を考えていました、とも言えずは慌てた


       「はは、その表情の方が君らしい。
        …そんなところも君の魅力だと言っていた、ナターシャが。」


       ずっと考えていた男に「魅力」などと言う単語を口ずさまれて、は一瞬どきりとした
       …そして咄嗟に見上げたアレクサーの、その表情の優しさに

       …そうだわ、この表情。20前の男がこんな大人びた表情をするなんて
       日本に居た時、この歳でこんな表情を身につけた人なんて見たこともなかった
       …否応無しに「大人」でないと生き抜けない厳しい大地、それがブルーグラード…
       私、さっきまでアレクサーの事をずっと年下の男とばかり考えていた
       …こんな年下の男に惹かれるなんてどうにかしている、と
       でも、それは私の間違いだわ
       彼は実年齢よりもずっと大人の男だったのよ。…本人の望む望まざるに関わらず



       「…アレクサー、貴方今は一体何をしているの?
        ナターシャが『日中はあまり家にはいない』と言っていたけれど。」


       がその言葉を口にした途端、アレクサーの優しい表情が一瞬曇った


       「…ああ、ごめんなさい。別に貴方を詮索するつもりで言ったんじゃなくて、唯
        貴方の事をもっと知りたいと思ったから…。」


       が謝ると、アレクサーは再びその目元を緩めた
       「貴方の事を知りたい」と言うの正直な言葉に、偽りや懐疑心が微塵も含まれていないことをアレクサーなりに確信したのだろう
       そして、アレクサー自身、目の前に座るこの年上の女性に対して「妹が世話になっている人」以上の関心が
       沸き上がりつつあるのをじわじわと感じ始めていた

       …何だろうか、この「もっと知りたい」と言う気持ちは
       ナターシャから話を聞いている時はたいして気に掛かりもしなかったが
       こうして実際に向かい合って話していると、表現しがたい心境に駆られる
       最初はそれが「彼女が日本人である」と言う目新しさに起因するものかと思ったが、どうやらそれも違う

       アレクサーはカップを持つ手をしばし休め、の顔を正面から凝視した


       「…日本とブルーグラード〈ここ〉では随分文化が異なるんだろうな。
        俺はまだこの国から出たことはないが、遠くないうちに一度は外に出て自分の国を客観的に見る目を養いたいものだ。」

       「…そうね、確かに外国に住んでみると如何に自分の国が恵まれているかを痛切に感じたわ。
        …そして、それが自分をどんなに脆くしていたか、と言うことも。」


       は顔を伏せ、眉を顰めた


       「…君は自分の国の豊かさが自分を脆くしたと言ったが、それでも俺…この国の人間から見たら豊かさは求めて止まないものだ。」

       「…そう…かもしれない。物質的な豊かさと精神的な豊かさとは二律背反する存在なのかもしれない。
        どっちが良いとかどっちが悪いと言う類の事ではないのでしょうけど、…ブルーグラード〈ここ〉に来て、私はこの大地に生きる人達をただ護りたいと思った。
        …少なくとも、この人達が侵害され続けて来た『生きる権利』を護りたい。」


       思い詰めた様に語るを覗き込んで、アレクサーは絶句した
       …その拳を膝で強く握りしめ、は静かに涙を流していた


       「…こんなに温かくて強い心を持った人々が迫害され続けているなんて許せない。
        オゾンホールの事だってそう。ブルーグラード〈ここ〉の人達は何一つ原因に繋がる事をしていないのに、
        ただ地理的な条件だけで被害を受け続けている。
        悪いのは私たち外国の人間なのに。」

       「…。」


       顎まで流れたの涙が、一滴ーまた一滴とその膝に零れ落ちた
       迫害されつづけて来たブルーグラードの人間を思って今流れ落ちるの涙を、アレクサーは理屈抜きに美しいと時の流れも忘れてただ見入っていた

       そうだ。この女〈ひと〉のこの眼差し
       …この激しくも強い、そして怒りに満ちた眼差し
       どこか懐かしいと俺が感じたのは、嘗ての俺自身がこの目をしていたからではないか
       …理不尽なものを憎み、自由を奪い返したいと
       今もその思いは変わらない。…ただ、少しやり方が変わっただけだ




       「…君の事を外国人だと考えていた事を君に謝りたい、。」

       「……?」


       涙で崩れ掛けたの頬に、アレクサーは優しくその掌を落とした
       …あの晩と同じように。……いや、それ以上の想いを込めて


       「君も既にその肌で感じてはいるだろうが、この国は酷く貧しい。
        …今まで俺はこの国の惨状を真に理解し、そしてそれを変えるために闘って行くことが出来るのは
        自分達ブルーグラードの人間だけだと心の奥底で考えていた。
        外国人は到底立ち入るべき問題ではないと。
        ……だが、君は違う。
        、君の思いは本物だ。…いや、俺たち以上に君の気持ちの方が核心を捉えようとしているのかもしれない。」

       「……アレクサー…。」


       アレクサーが「闘い」と言うフレーズを口にした時、の中で皮肉に口の端を上げて冷笑するカノンの姿が横切った

       『そうだ。直接彼等を追い込んだ存在と闘い、勝つことだ。
        それまでは彼等が何を主張したとて、唯の敗者の戯言(たわごと)に過ぎんさ。』

       その姿を振り払うために、は必死で小さく頭を振った




       …そう、武器では無く、私の『闘い』を!




       強い光を宿して顔を上げたの瞳の中に、アレクサーは眩しいものを見た心地がした


       …まるで、闘いの女神。


       無言のうちに一つ頷き、アレクサーは意を決して話し始めた。


       「…俺が日中に何をしているのか、と先程君は尋ねた。君に、そのことを打ち明けたい。」

       「…アレクサー?」








       「…二年前、俺は自分の父親を殺した。…誰でもない自分のこの手で。」










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